ゴルフダイジェスト誌に連載してきたメンタルトレーニングのコラム「禅の境地へ 滴り積もりて」ですが、今回が最終回になりました。
これまで3年半にわたってスポーツに禅をどのように取り入れていくかについて、さまざまな視点から探究してきました。ただ禅とは「不立文字」と言われるようにそもそも体験的なものなので、言葉にするほど本来の教えから遠ざかっているのではないかというジレンマを感じながらの作業でした。そもそも私などが禅を語ってよいのかという苦しさも常にありました。
自らの未熟さを思い知らされる日々でしたが、選手が窮地に陥ったときに、何度も禅の智慧が打開するヒントをくれました。コラムでは知識というよりも、メンタルトレーニングの実践から生まれた気づきを書くように心がけました。
そして、連載をはじめて3年を経ったころだったでしょうか。「縁起のゴルフ」という言葉が浮かんできました。
人はプレーする前に、自分のプレーを意味づけしようとします。目標や結果を達成するためにプレーをコントロールしようとするのは概念が先にきたプレーです。概念ファーストでは自分で枠に閉じ込めている状態になります。努力して頑張るほど思い通りのプレーができない。これがアスリートの苦しみの根源ではないかと気づいたのです。
自分の限界の枠を突き破るには、いかに無意味の世界に飛び込めるか。無意味とは概念から離れた状態であり、身体ファーストのプレーと言えます。意味はプレーした後から分かるという感覚でプレーできているときが、もともとの自然なあり方。これが無心のプレーへの入り口です。
170回にわたってさまざまなメソッドを書いてきた結果、最終的に自分が本当に言いたかったことに出会えました。私が書きたかった意味はまさに後から分かったのです。
スポーツには2つの方向のプレーがあります。
一つは右肩上がりのプレー。目標を定めて、そこに向かって一つ一つ階段を上がっていくのです。上達するという考え方と言えます。
上手くなるためにより多くの技術を習得する。さらに精度の高いプレーを目指す。目標をどんどん上げていく。勢いがあるうちは、高い頂を目指してどこまでも駆け上ったらいいと思います。
しかし、それだけではどこかで行き詰まります。なぜなら、右肩上がりのプレーとは、常に何かをGETしようとしているからです。それゆえに、身心はいつも緊張を強いられています。20歳前後まではそれでもやっていけますが、身心に負担をかけた経験を重ねる中でフィーリングが狂いはじめるのです。これはどのスポーツでも同じです。しかし、違和感を感じ始めても、GETのプレーが当たり前になりすぎていて、自分に足りないものを埋めようとします。さらに懸命にGETする努力を続けた結果、深いスランプに陥っていきます。
そこで大事にはなるのは、原点に戻っていくプレー。もともとの自分に目覚めるプレーと言ってもいいと思います。これは、右肩上がりとは真逆の方向の心の持ち方です。
GETの心でプレーを重ねた結果、自我で身心はガチガチになっています。凝り固まった自我を少しずつ柔らかくしていくのですが、そのために手放すことをやっていきます。
目標は一度捨てる。
結果へのこだわりを手放す。
上手い下手というジャッジを手放す。
恥という意識を手放す。
言葉で書くとこれだけですが、実践するのはなかなか難しい。これまで170回にわたってさまざまなトレーニングメソッドをお伝えしてきましたが、まだまだ書ききれていません。
手放すトレーニングを続けていく中で、GETの意識が少しずつ減っていきます。GETの意識が薄まる中で、自分に与えられている力が顕れてきます。
それは、自我のプレーから無我のプレーへの転換と言えます。
人は足りないものを分析するのはむしろ簡単なのです。ただ足りないものを足そうとするのはGETの心であり、自我のプレーです。
一番難しいのは、当たり前にできていることに気づくことです。普通にやっていることが実はセンスの源なのですが、当たり前すぎて見えないのです。
普通に出来ていることに気づき、それを磨いていくか。
これだけで、スコアは大きくあがります。自分がもともと持っている力を活かすだけで、あなたのプレーは劇的に変化します。
トレーニングを受けにこられる選手達は、「今までやっていたことと真逆だった」「こんなに楽にやっていいのでしょうか」「自分にもセンスがあったことにはじめて気づけた」と驚かれます。
週刊ゴルフダイジェストに連載中のメンタルトレーニングのコラム「禅の境地へ」第171回のテーマは「無心のスウィングへの道」です。
今回の連載はまさに旅でした。最終回に「無心」というテーマまでこられたことは本当に奇跡のようです。ただ、これが終わりではありません。「無心のプレー」への探究の道はまだまだ続きます。
もし、あなたが「無心のプレー」という言葉に心惹かれたとしたら、それは探究への道が始まっているということ。
ぜひ一緒にひとつひとつ紐解いて行きましょう。
これまでコラムをご愛読くださった皆さん、本当にありがとうございました。そして、またどこかでお会いできることを楽しみにしています。