プレー中に考えてしまうと、どのスポーツでも上手くはいきません。怖くなって身体が動かなくなったり、リズムが悪くなったり、力んでしまったり。考えない方がいいことが分かっていても考えてしまうのです。
そして、考えてはいけないと、考えることを止めようとすること自体が、皮肉なことにさらに考えているのです。プレー本番でいかに考えることから離れるかは、アスリートのメンタルにとって大きなテーマです。
ちなみに「考える」ということはどういうことなのでしょうか?
考えるというのは言葉にすることです。言葉で問題点を分析し、解決策を出すことです。人は言葉を使っている時点で思考しているのです。
言葉というのは便利なものである一方で、苦手な働きもあることを理解しておく必要があります。
プレーには、2つあります。「言葉になったプレー」と「言葉になっていないプレー」です。
プレー中に考えているというのは、言葉でプレーしている状態と言えます。
それはたとえ理論的には正しいことでも、プレーを言葉にしてしまうと身体の動きは鈍ります。
たとえば、野球のバッティングでいえば「頭を残す」ことが大事とされています。これを自分に声かけするとどうなるのでしょうか。
「頭を残せ」という言葉をかけながらバッティングすると、多くの場合上手くはいきません。頭を残せと言葉で命令すると、動きは固くなったり、全身の動きが止まってしまい手打ちになったりします。あるいは、頭は残ったとしてもリズム感が悪くなります。今度は別の問題が発生するのです。
言葉というのは誰しも理解できます。ということは、かなり大きなエネルギーの塊なのです。言葉は微細な身体の動きを表現することは非常に苦手なのです。
これは言葉の持つ働きであり、言葉の持つ限界でもあります。ビジネスでもスポーツでも現代は、言葉に頼りすぎているといえます。
いかに言葉から離れたプレーをするか。
禅×メンタルトレーニングでは、さまざまなトレーニングを通して、言葉を減らしていきます。
まさに禅の修行は、言葉になる前の世界にアクセスすることです。坐禅では、身体の微細な動きや呼吸の働きを感じます。そうしている間に、言葉は自然に減っていきます。また、坐禅を重ねる中で言葉に身体の動きが左右されなくなっていきます。
それは、空気や重力など、目に見えないものにフォーカスし続ける中で、言葉になる前の働きに気づけるようになるからです。私たちを取り巻く環境は、言葉になっていない、遙かに微細なエネルギーが存在しているのです。
なので、坐禅は心の解像度を上げていくことといえるかもしれません。解像度が高い人と低い人とでは、見えているあるいは感じている世界がまったく違うのです。
これは動物と人間の違いと言ってもいいかもしれません。動物は気配を感じることで厳しい世界を生き延びます。またどのスポーツでもトップのアスリート達は、非常に高い解像度を持っています。ただ、それは当たり前すぎて気づいていない選手も多いのです。
なので、いろいろな理由で解像度が下がってくると、同じようにプレーしているように思っても、まったくフィーリングが変わってくるのです。見えていたもの、感じていたものが感じられなくなってしまうのです。
実は、多くのトップのアスリート達がここで苦しんでいるのです。また、実力はあるのに関わらずもう一つ壁を突破できない選手にも同じことが言えます。
これは、他人では分からない苦しみであり、何かを変えれば解決できるという技術的な問題点ではないのです。
これは心理学をもとにしたメンタルトレーニングでは扱えません。非常に繊細でアーティスティックな個人的感覚であり、科学ではまだ実証されていない領域なのです。
いかに言葉になる前に打つか。
プレーに集中しているいわゆる「ゾーン」と呼ばれる状態では、言葉はありません。ただ、ボールに合わせて身体が動いている感覚のとき、言葉は消えています。
言葉を減らすには、さまざまなトレーニングがありますが、まずは「言葉モード」から「感覚モード」へ切り替えるか。
正しい間違いという無意識のジャッジ、問題点や解決策の分析、目標や結果を考えることというのはすべて言葉モードのプレーです。
これは言葉を使ってのプレー。
感覚モードに切り替えるには、いかに身体からの声なき声を聴けるか。話すという発信ではなく、聴くという受信へ心を切り替えるのです。
発信から受信とは、何かをするという意識からただ受け入れる態度への転換ともいえます。
考えている→考えないでは、思考から離れることは出来ません。考えている→感覚の受信に切り替えることで自然に言葉は減っていきます。
ゴルフでいえば、「言葉になる前に打つ」
野球でいえば、「言葉になる前に投げる」「言葉になる前にバッティングする」
陸上でいえば「言葉になる前にスタートする」「言葉になる前に走る」「言葉になる前に跳ぶ」
ある野球選手は、「自分を言葉になる前の世界に飛び込ます訓練ですね。」と話していました。最初はかなり難しかったそうです。坐禅をしたり、目を閉じてプレーをしたり、さまざまなトレーニングをする中で、あるとき言葉がなくなった瞬間に出会えたそうです。
本当に向かうべきは、記録でも対戦相手でもなかったのです。
それは、それまでの枠を超えたまったく新しい自由なプレーだったそうです。そして同時にまったく自分らしい、もともと自分が知っていたプレーだったそうです。
週刊ゴルフダイジェストに連載中のメンタルトレーニングのコラム「禅の境地へ」第165回のテーマは「パットは全身で打つ」です。
「手打ち」はイップスへの入り口です。短い距離のパットこそ全身で打つことを心がけることが大事であることをお伝えしています。
興味のある方はぜひご覧ください。