【名残惜しさとともに】
今年最後の無心のマインドフルネス研究会。
最近、内容がどんどん深くなっていく。今は、「分からない」ことが「分からない」という落ちこぼれ状態。
なかなか苦しいが、とっても新鮮。
面白いのは、参加したあと、日常の中で何かしら自分の中で起こっていること。
今のテーマは「余韻」
体験には身体に残っている余韻がある。ある人は「余白」と言っていた。
余韻とは体験が馴染む時間。染み込んでいくと言ってもいいかもしれない。
今までは、今を生きようとしていたが、何かを常にキャッチしようとしていた。それは前寄りの今。進むことを意識していた今。
体験が消えていく今。名残惜しい今もある。
この余韻を感じていると、何かが立ち上がってくるのを感じやすい。
「今この瞬間」は余韻と新たな立ち上がりが層になって重なっているような。
「とき」というのは幅がある。深さがある。そして前と後ろでストレッチするように感じる。
瞑想で呼吸を感じましょうと言われると、私の場合は、ヨーイドンという感じになり、逆に「今」が狭く、浅く、そして固くなる。
余韻からはじめると、自然に呼吸が立ち上がってくる。余白を感じることで、呼吸への意図が減っていく。
スポーツでも、意図を手放したときに身体のグルーヴが生まれる。しかし、意図を手放そうとすると、そこに別な意図が発生してしまう。
きょう早速、陸上選手とのトレーニングで余韻を試してみた。オリンピックレベルのトップ選手でも余韻は感じていなかった。
結果を求めると、心が自然に前のめりになっている。身体と心がズレていく。
余韻を感じながら走るというのは、後ろを感じながら走るということ。自然に前のめりから、中立になるの
ではないか。過去と未来がつながった今はストレッチされてくるのではないか。
いつもながら、選手へのトレーニングは自分自身とのテーマと重なります。
余韻をもう少し探究してみよう。
年末のこの時期が好きです。何か名残惜しさを感じながら、暮れていく。暮れていく景色を味わおう。