今回もアメリカで新セミナーを開催してきました。
新作セミナーのテーマは、「かすかな心で聴く」です。
The Art Of Listeningセミナーも第6弾になります。

まず日本語でセミナーの原案を作り、それを英語に
翻訳していくのですが、作業は難航しました。

和食は、出汁のかすかな味覚を味わいます。
日本には、和食をはじめ、合気道、剣道などの武道、
静かな心、侘び寂びなど「微細な感覚」を大事にする
多くの表現があります。

一方でアメリカの文化は、白黒をつけたい、はっきりしたものを
好むところがあり、食べ物にも刺激を好む傾向が強いです。
一般的には、微細とは真逆と言える文化といえます。

ただ現代社会においては、日本でもアメリカと同じように、
刺激を求める状態になってきていると思います。

道元禅師が「鼻息微通」と言ったように、坐禅では
かすかな息を感じます。
坐禅のときも、目を半分だけを開けて「かすかに見る」
半眼でいます。

また、お腹の前で仏像のように手を組んで「法界定印」
(ほっかいじょういん)という手の形にするときにも、
親指同志がかすかに触れる状態を感じるのです。

このように坐禅は、はっきりとしたものではなく、
かすかな感覚を大事にします。

今回の「かすかな心で聴く」というコンセプトは、私自身の
禅経験の中から生まれました。かすかな感覚を感じることで、
自分の中に心と身体のバランスを生み出します。

今回のThe Art Of Listeningセミナーでは、かすかな感覚を
大事にする心で相手の話を聴くことに焦点を当てました。

上手く言えませんが、かすかな感覚に注意する心で聴くことは、
どちらかが強くもなく、弱くもない、相手とのバランスの
とれた関係を生み出します。
それが、相手とのハーモニー、調和になってきます。

ただ、最初の壁は、アメリカ文化、英語において、
「かすかな心」という基本的な概念がほとんどない
ということでした。

なので、どのように伝えれば、基本的な概念を理解して
もらえるか考えるところから、作業は始まりました。
その中で、いかに分かりやすくするかを議論したのですが、
逆の疑問が出てきました。

分かりやすいものが本当によいのか。

禅において、かすかな声を聴くことが大切にされていますが、
それを会得すれば必ず幸せになれるという、
いわゆる正解ではありません。
また、言葉で教えたり、説得したりするモノでもありません。

一方で、現代社会では、簡単にできて、手っ取り早い答えを
求める風潮があります。

簡単に幸せになれる。
すぐに欲しいものが手に入る。
幸せになる方法を教えてくれる。
すぐに痩せられる。
努力せず健康になれる。

去年ある企業が主催する、マインドフルネスのセミナーを
受けました。とても分かりやすく、親切な感じがしました。

恐らく、開発者が熟慮を重ねて、エッセンスだけをぬいて
シンプルにしたのだと思います。
だから、実績もエビデンスもある。
使いやすいし、すぐに実践できる。効果もある。

素晴らしいですが、なぜかこのセミナーは、
人工的な感じがしました。
分かりやすいがゆえに、少し不自然さを感じるのです。
そして、心に残りませんでした。

私には、それらは少し刺激的すぎたのです。
イチゴを絞ってエッセンスを抽出し、そこに甘味料を
加えた、美味しいお菓子という感じでしょうか。

それは確かに美味しいお菓子ではありますが、
生のイチゴとは別のモノです。
お菓子がいい悪いというのではなく、手を加えた時点で
すでに別のモノなのです。

では、本当に求めるものは何か?

私が禅に惹かれているのは、絶対唯一の答えがなく、
簡単に答えが出ないからです。

坐禅は時にとても退屈ですし、疲れていると寝てしまう。
進化や変化を感じないことがほとんどです。

しかし、そこには、自分のイマジネーションが入る大きな
スペースがある。いろいろ工夫できる余地がある。
終わりのない探求をするためには、分かりづらいくらいが
いいのではないでしょうか。

アメリカのパートナーは、今回の「かすかな心で聴く」を
はじめとした「The Art Of Listeningシリーズ」はとても体験的で、
素材感を大切にしているのが特徴だと認めてくれました。

刺激や分かりやすいものを求めている人には物足りないが、
だからこそいい。

私の役割は、あくまでも“きっかけ”を提供すること。
素材と触れることで、それぞれのイマジネーション、工夫を
各自が駆使して、“真の豊かさ”に気づき、“つながり”を
感じ取ってもらいたい。

これは、禅を血肉化していこうとする私自身のあり方なのかも
しれません。

一本の綱の上を、バランスをとりながら渡り続けるのが
人生なのだと思います。
それを渡れるのは自分しかいない。
バランスをとるためには、時に分からないという
苦しさの中にい続けるしかない。

でも、分からなさ過ぎても、不親切すぎますよね。
「分かる」と「分からない」のバランスをいかにとっていくか。
最低限の加工をいかに施すか。

伝統の日本料理は、ひとつまみの塩の世界だと聞きました。
素材を活かすか殺すかは、まさにかすかな塩の量で決まる。
そこを突き詰めているのが「和の料理」であり、
だからこそ「Art」なのでしょう。

伝統的な日本の和の心は、禅にしても料理にしても、
同じような心が根底にあるのだと思います。