平常心とは
先日、禅の師匠である藤田一照老師とゴルフダイジェスト誌の特集で対談させていただきました。テーマは「平常心」です。今回は特集の内容について、少し掘り下げてみたいと思います。
あなたは、平常心と聞いてどういうイメージがあるでしょうか。
『広辞苑』によると、「普段どおりに平静である心」とされています。
どんな状況でも動揺したりせず、「平常心を保つ」というような言葉で一般的には捉えられているのではないでしょうか。
スポーツ選手とのメンタルトレーニングでも、「どうすれば平常心を保てますか」と質問されたりします。練習のときと変わらず普段通りプレーしたいということだと思います。
一方で、禅においての「平常心」は「びょうじょうしん」と読むのですが、意味もまったく違います。
まず、「心」の意味ですが、私たちが通常考える心とは、心理学で説明されるマインドやハートの心です。
禅においての「心(しん)」は、宇宙の活動のことを指します。大自然の働きとも言えます。
人間の狭い了見でみると、病気や災難、日々起こる問題に悩まされます。周りの出来事に自分の心が乱されるのです。そう心を捉えると、どう心を静めればよいか、どう心をコントロールするかが解決策になるでしょう。
自然の「しん」から見ると、それらの出来事はすべて必然的に起きています。
「平常心是道」という禅語があります。『広辞苑』によると「びょうじょうしんこれどう」と読んで、「日常にはたらく心のあり方がそのまま悟りだということ。」と解説されています。
藤田老師は、「平常心を作ろうとしないこと。いかにありのままの状態に気づき、受け入れられるか。」と話されました。
つまり、緊張せず、静かな心を得ようとしている時点で、実は「平常心」ではないのです。わざわざ手に入れようとしている時点で、自分と心が離れています。
いかに「心(しん)」とひとつになるか。
緊張すれば緊張が平常心。
迷っていれば迷っているのが平常心。
本来のありのままというのは、「自他を区別するのではなく、この世界のすべてとつながっている境地から生まれてくるあり方」です。これは自分が満足できるかどうかという小さなありのままではなく、起こっていることをそのまま受け入れる大きなありのままと言えます。
「自分にこだわった小さなありのまま」から「世界とつながる大きなありのまま」への道が、「平常心」の訓練です。
大谷翔平選手は24時間野球選手
平常心と付き合う上で、難しいのは結果との付き合い方です。スポーツでも仕事でも結果が求められます。結果を出さないと、ビジネスやスポーツの世界では生きてはいけません。しかし、無理に結果を出そうとすると、ありのままから遠ざかったりします。結果と「しん」の関係はどうでしょうか。
結果について、禅ではどう捉えるのか。今回の取材の中で藤田老師に質問しました。
先日ある雑誌の記事でメジャーリーガー大谷翔平選手のストイックな生き方について特集されていました。
若い時から、先輩から食事に誘われてもほとんど行かないそうです。試合でプレーしている時間以外の過ごし方をとても大事にしているのでしょう。
藤田老師によると、「大谷選手は、24時間野球選手」だそうです。
バッターボックスに立っている時だけが、野球ではありません。普段の生き方も、野球選手として生きているのです。
それは、野球のことばかりを考えているということではありません。生き方が野球そのものなのです。
ちなみにお釈迦様は、24時間フルタイムブッダだそうです。24時間、涅槃という道を無心で生きています。藤田老師によると、「自分はパートタイムブッダ」だと笑いながら話されていました。
ときどき、無心になっていることはあるが、普段は煩悩で生きていることもよくあるというのです。それが凡人のあり方だと。
24時間野球選手である大谷選手は、「結果」は全体の中のほんの一部にしかすぎません。
ボクシングの井上尚也選手はインタビューの中で、「タイトルは通過点でしかない。35歳で引退する時に自分はどういうボクシングの“たかみ”にいるのか、それだけしか関心がない」と話していたそうです。
目標というのは、本気で取り組んだら、連れて行ってくれるところがあるということ。ゴルフでいえば、「振る」ことを極めていく中で、見えてくる景色がある。
そのために、常に、準備を整えているのです。そして、その準備も楽しんでいる。
誰しも、つい目先の結果で一喜一憂します。そうすると、一時的な結果に「心」を持っていかれます。だから、「平常心」という土台が必要ということになります。
私自身は、何が起こっても、それは自然な働きの一部なのだという理解を持っておくことで、思い通りにいかないことに対して焦ったり、怒ったりすることが減ってきたように思います。
コーチングのセッションでは、「心」から「しん」へのパラダイムシフトをしていきます。いかに、視野を広げ、感情に飲み込まれないようにするか。また「ご縁を生きる」というのは、自然の働きと喧嘩しないあり方を探求することです。
「受」のメンタルトレーニング
今回の特集の中で、「受のゴルフ」という視点でのトレーニングも紹介しています。
人間は感覚器官が刺激に触れることで、「快」「不快」「どちらでもない」という3つの「受」が起こります。これは「喜怒哀楽」の前に起こる種のようなものだそうです。
快が起こると、人はもっともっと欲しいという欲が出て、これが「貪り」になります。また、不快は、こんなのは嫌だ。あっちへいけと排除しようとすることで、「怒り」という煩悩に育っていきます。
「どちらでもない」は無視することで、本当はあるのにないと錯覚している「愚かさ」「妄想」になっていきます。これがいわゆる3つの煩悩と言われる「貪瞋痴」です。
普段の訓練としては、いかに「受」が煩悩に育つ前に、第一の矢が飛んできたことに気付けるか。ブッダも第一の矢は受けるのです。しかし、そこで煩悩に育たないのが凡人との違いです。
選手とのメンタルトレーニングでは、練習中に、「快」「不快」「どちらでもない」状態のどこにいるか言葉に出してもらいます。いかに早く気づくかという訓練です。これを重ねる中で、欲が突っ張って無理をしたり、怒りや悔しさという感情に飲み込まれたりということが格段に少なくなります。
「快」「不快」「どちらでもない」という受が起こったら、そこで「リアクション=反応」を起こさないか。リアクションとは、心の癖であり、無意識に煩悩を育てています。
人はさまざまな心の癖を持っています。そこに飲み込まれるのではなく、適度な「間」をとる。「間」がとれれば、無意識にリアクションすることは減ります。そのかわり「レスポンス=対応」することができる余裕が生まれます。
リアクションからレスポンスへというのが、私たちにできる日々の「受のトレーニング」といえます。
これが自分の心から自由になるということです。
今回の特集記事がYahoo!ニュースに掲載されました
今回の特集記事は、Yahoo!ニュースに掲載されました。詳しくお知りになりたい方は、下記のリンクからご覧になれます。
禅を通してゴルフを考えるその1 「平常心を保つ」とはどういうことなのか