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あなたにはまだやり残したことがある 勝たないメンタルトレーニング
勝つためのメンタルトレーニング
私は多くの人に素晴らしい話をお伝えするのは得意ではありません。この原稿は大きな挫折を経験したある1人の女子プロゴルファーにむけて書き始めました。
しかし、面白いもので、徹底的に個別な話を突き詰めていくと、物事の真理に辿り着くことがあります。この本を完成させてくれるのは、今この文章を読もうとしているあなたです。
私はこれまでメンタルコーチとして、プロゴルファー、プロ野球選手、プロテニスプレーヤー、オリンピック出場を目指す陸上選手などさまざまなアスリートに出会ってきました。
メンタルトレーニングというと、皆さんはどのようなイメージを持たれているでしょうか。
恐らく、さらにパフォーマンスをあげる。勝つために必要な心の技法を習得する。ゾーンに入るために集中力を身につける。いつも平常心でいるためにマインドフルネスを学ぶ。
確かに世の中では「勝つためのメンタルトレーニング」が主流といえるでしょう。
勝たないメンタルトレーニングとは
しかし、これからあなたにお伝えすることは、まったく違います。
一言でいえば、「勝たないメンタルトレーニング」です。
今、絶句されたかもしれません。
あるいは、侮辱されたように感じたかもしれません。
勝つという目標があったからここまで懸命に努力し頑張ってこられた。その努力を否定するのか。勝たないなんて、なんの意味もないじゃないか。
その通りだと思います。
私のもとにやってくる選手には2通りいます。
勝つために技法を学びたい選手。もっと上を目指したい選手です。しかし、こうした選手達は、思うような結果が出ないとすぐにメンタルトレーニングをやめてしまいます。
選手のお役に立てない私は、メンタルコーチとして能力がないのではないかと悩んだ時期もありました。
しかし、お役に立てた選手もいたのです。それは、燃え尽きかけている選手達です。
スランプからの復活
パッティングイップスに陥った女子プロゴルファーもいました。
ある大きな大会で優勝後にスランプに陥り、長い期間力を発揮できず、どん底だと思った底が何度も抜けた経験を持つ選手もいました。
また別の選手は、自分に合わないフォーム改造や、過度な肉体トレーニングなど無理を重ねてきた結果、怪我をしてしまった末に私の元にやってきました。
不思議なことに、こうした選手たちにはお役に立てたのです。
トップを目指す選手とどん底にいる選手は何が違うのでしょうか。
誰しも勢いがあるときがあります。思うように身体が動き、練習するほど上手くなる。どんどん高い目標を掲げるほど燃える。誰しも右肩あがりの時期があります。これはプレーヤーの前半生といえます。前半生に必要なのは、勝つためのプレーです。
一方で、長いスランプの最中やどん底にいる選手というのは、練習するほど下手になっていきます。高い目標はプレッシャーにしかなりません。自分のプレーを見られるのが恥ずかしくなり、悪いイメージしか湧いてこない。本番の前の日は不安と恐れで寝られません。そして、少し調子が上がってきたかもと勇気を振り絞ってのぞんだ試合では、まったく身体が動かなくなる。すべての希望を打ち砕かれ、帰りの道中ではどれだけ涙を流したか。
私はこのような選手達を可哀想だとは思いません。ただ、このまま引退してしまうと、プレーヤーとしては前半生だけで終わってしまいます。それが惜しいのです。
なぜなら、燃え尽きボロボロになったとき、それは後半生へのスタートなのです。
あなたには、まだやり残したことがあります。
それが勝たないプレーです。
競技人生をいかに終わるか
前半生のプレーと後半生のプレー
プレーヤーとして、やりきったと感じられるか。
やりきって引退できる選手は本当に幸せといえます。しかし、多くの選手が不完全燃焼のまま選手生活を終えていく。また、いつ現役を終えて良いのかその時期がみつからないまま競技を続けている選手もいます。
試合に勝つこと。目標としている数字を達成すること。
若いときは、結果がすべてでいいと思います。競技のことしか考えられなくていいのです。これを私は前半生の競技人生と呼んでいます。まさに陽がのぼっていくプレー。
現役としての生活はどこかで終わりがやってきます。はじまりがあれば必ず終わりがあるからです。
体力のピークを過ぎたとき、人は下り坂に感じます。しかし、そこからが本当のあなたのプレーヤーとして集大成のスタートなのです。
いかに終わっていくか。
これを私は後半生の競技人生と呼んでいます。前半生の競技人生はまさにピークにむけてのプレーですが、後半生の競技人生は、本当の自分に戻っていくプレーです。
すべて出し切れた時、競技人生は終わる
あるプロゴルファーは、若いとき、さまざまな大会で優勝するなど、輝かしい成績を残していました。しかし、私が出会ったとき、スランプのドン底にいました。
もうゴルフをやめるかどうかという時期だったのです。心は半分燃え尽きていました。
いろいろ話し合った結果、もう一年現役生活を続けることになりました。
メンタルトレーニングに取り組むことで、スコアは大きく回復しました。なによりも、楽にプレーできるようになったのです。本人も復調に手応えを感じていました。
そして、メンタルトレーニングをはじめて一年、プロとしてすべてをかけた試合に出場し、まったく思ったような成績は出ませんでした。
しかし、試合後の表情はとてもスッキリしていました。
「すべてを出し切ることができました。これでゴルフをやめることができます」
この試合を最後に、現役を退きました。
この結末がよかったのか。コーチとしては、結果を出させて上げたかった。もう一年やれば、さらに良い結果が出るだろうとも思いました。
しかし、プロの決意は揺らぎませんでした。
私とのメンタルトレーニングの一年間で、自分がやりたかったことが見えてきたのです。それは子供のころから好きだったアートの世界でした。
現役最後のプレーは、結果は出なかったですが、自分のありのままをすべてプレーに出すことが出来たのです。だから、やりきったという気持ちが生まれたのです。
やりきったかどうかは、結果が出るかどうかではないのです。本当の自分でプレー出来るかなのです。
人は自分のプレーを出し切れたとき、やりきったと感じられます。
終わりは新たな人生のはじまり
半年後、この選手に偶然お会いしました。別人のようになっていることに驚きました。子供のようにキラキラした目をされていました。
「今は本当に幸せです。ゴルフを頑張ったから今の仕事に出会えました。」
こんな現役の終わり方、そして新たな人生のスタートがあるのです。
私はコーチとして選手の夢や目標を叶えてあげたいです。しかし、それよりも大事なことは、選手が本当の自分に目覚めるか。現役生活の最後を、いかにやりきったと感じられるか。
メンタルトレーニングを重ねる中で、もちろん長いスランプから脱出し優勝という悲願を叶える選手もいました。しかし、そうでなくてもいいのです。
真の幸せというのは、選手として思うような結果を残すことだけではありません。思うような結果をだせなかったから、選手としてやってきた意味がなかったのではありません。
選手として努力した時間には、結果だけでは語れない、素晴らしい体験をしているのです。第二の人生で花が咲いた選手達をたくさん見てきました。
現役生活をまっとうできるかは、悔いの残らない人生を送れるかとつながっています。私はプレーヤーの競技を、人生の幸せという視点からいつも見るようにしています。
だから、競技人生の最後には、結果だけではない、本当の面白さを体験して欲しいのです。
初心に戻る
勝利への挑戦と道を究める修行の違い
メンタルコーチとして、「勝たなくていい」と言うのは、なかなか覚悟が必要です。
選手として勝つことを捨てることはプレーする意味がないと強い抵抗を感じるでしょう。
勝つことは「挑戦」といえます。そして、勝たないということは「修行」です。
同じスポーツでも、挑戦と修行とは何が違うのでしょうか。
若い頃のプレーヤーというのは、みんな希望で満ちています。練習するほど上手くなる。誰しも伸び盛り、右肩上がりの時期があります。こういうときには、目標を高くもって、その丘を登っていけばいいのです。そのためのメンタルトレーニングに関する本は山のようにあります。ゴルフでいえば、宮里藍さんがトレーニングに取り入れた「ビジョン54」は理想のゴールに向かうための究極のコンセプトと言えます。これは勝つ事への挑戦のプレーです。
しかし、私はメンタルコーチをやってきて、このゴールを目指すメソッドに疑問を持っていました。
本当にゴールは必要なのだろうか。目的や目標がないと理想のパフォーマンスを実現できないのだろうか。
あなたは禅の「円相」をご存知ですか?言葉は知らなくても、円を一筆で書いた絵をどこかで見たことがある方はいらっしゃると思います。「円相」とは、禅における書画の一つで悟りや真理、宇宙全体を象徴的に表現したものとされています。茶道をしていると、「円相」の画を見かけることがよくあります。ある茶席で「円相」がお床に飾られていたのですが、何気なしに目をやっていると、ふと、人の成長と円相がつながっていることに気づきました。
皆さんは、成長をどのようにイメージしますか?
多くの選手が抱くのは、右肩上がりのイメージでしょう。上がったり下がったりしながら、徐々に上がっていくイメージかもしれません。いずれにしても、前進する、進む、上がっていくという感じではないでしょうか。
しかし、円をよくみてください。半分をすぎると、円の曲線は戻ってきます。
本当の自分に戻るプレーとは
禅においては「本当の自分に戻る」ことが修行だとされています。進むのではなく戻る?よく分からないかもしれませんね。
「初心に戻る」という言葉があります。英語ではビギナーズマインドとも言いますが、禅の修行では非常に大切にされています。
アメリカで禅を普及することに生涯をささげた鈴木俊隆老師は、「初心者の心には、多くの可能性が溢れているが、熟練者の心にはそれが少ない。」と著書の中で述べています。人は学ぶ努力をする中で、様々な情報を得ます。それはやがて固定概念や先入観になっていきます。いつしか他の人の意見に聞く耳を持たなかったり、自分勝手に解釈したりして、人にも出会うものにも素直さを失ってしまうのです。そのとき、残念ながら成長は止まってしまいます。
初心は進むものではないのが面白いですね。初心は戻るという方向なのです。
私の師匠で『禅ゴルフ―メンタル・ゲームをマスターする法』の著者でありアメリカのトップメンタルトレーナー、ジョセフ・ペアレント博士も「初心者の心を持ち続けることは決して楽なことではない場合が多いが、それは有意義なことだ。初心でいれば、われわれはすべての人々やあらゆる出来事との出会いから、多くのことを学べるのである。」と述べています。
原点に帰る後半生のプレー
初心のプレーには、トレーニングが必要です。なぜなら私たちは、熟練の心になる方が簡単だからです。つい、本を読んでわかったような気になる。人に勝ったような気になる。人の話を聞かなくなる。私たちが成長し続けるためには、原点に立ち戻ることが必要なのです。
円相の最後は必ず原点に帰ります。戻らずして、円相は終わりません。あるベテランのプロゴルファーは「今すごくいい感覚なのですが、実はこれってゴルフをはじめたころの感覚です。もともと自分は素晴らしい感覚を持っていたのですね。色々試してみましたが、やはり最後は自分自身に戻るのですね。」とトレーニングで語っていました。
また、ある野球選手は、「ずっと自分は前に向かって成長していると思っていたのですが、実は最近、自分の原点に帰っている気がします。魂を磨いている感じかもしれません。」とご自身の体験を話していました。
あなたが、これから地球一周旅行に出かけることを想像してみてください。今いる場所を出発して、最初の目的地にでかけます。どんな景色、どんな人、どんな食べ物に出会えるのか。新たな出会いにワクワクしていることでしょう。
そして、地球を半分ほど回った辺りから、気持ちに変化が現れはじめます。まだ半分の旅先があります。まだ続く旅への思い。そして、あなたが住んでいた町に帰っていくという意識が頭によぎりはじめます。まだ帰りたくないという気持ちと自宅に戻ったときの温かいお味噌汁をすする懐かしい感じが思い出されます。
旅というのは、実は出発した時点で、帰るということがはじまっているのです。
ただ、そのことに気づきはじめるのは、半分を過ぎた辺りからです。
禅では、「本当の人間になる」ことを修行していきます。
武道では達人の領域になるほど、技を身につけるという感覚ではなくて、身につけたものをそぎ落とすことを大事にされるそうです。ある禅の老師は、「自分の死に向かって進むということは、新たな自分の生に向かっている」と話されていました。
後半生の競技人生は、円相で言えば、折り返して帰ってくるということです。そのためには、前半生とは真逆からプレーを見ることが必要になります。
折り返しからこそ、あなたの人間力が試されると言えます。もう一度ゼロからプレーを見直し、あなたらしいプレーに目覚めていく。
後半生のプレーいうのは、修行なのです。禅的に申し上げると、「いかにあなたのプレーを成仏させる」か。本当のあなたのプレーは、目標を達成した先にはありません。もともとのあなたに戻ることで目覚めるのです。
燃え尽きたときが新たなスタート
競技人生のターニングポイント
人は生まれたとき、死に向かいはじめます。まさに「はじまりは終わりのはじまり」なのです。
しかし、若いときはそんなことには目もくれません。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」で描かれた明治という時代の日本のように、坂の上の青い天に輝く一朶の白い雲のみをみて、丘を登っていくのです。それが若さということでしょう。
しかし、面白いのは、必ず上り坂にも終わりが来ます。今度は下り坂がやってきます。それが、ターニングポイントです。
ターニングポイントというのは、大きな人生の節目だけをいうのではありません。1年の中にも、はじまりがあり、そしてどこかで年の終わりに向けて進み始めます。一日も朝から昼になり、やがて太陽が沈み、一日は暮れていきます。もっとも短いターニングポイントは、人の呼吸です。息を吸って、吐く。禅では人の息は一生とも言われますが、まさに一呼吸のなかで、折り返しのターニングポイントがあります。
進むという方向と戻るという方向の違い
私自身これまで20年以上にわたって禅の修行をさせていただいています。禅の修行というのは、右肩上がりの思考法とはまったく逆と言えます。禅は、進むのではありません。戻っていく方向なのです。戻っていく方向について具体的にいえば、以下のような感じでしょうか。
「進む方向」 「戻っていく方向」
すぐに効果が出る ⇔ すぐに効果が出ない
考えて理解できる ⇔ 思考の範囲を超えている
科学的にエビデンスが証明されている ⇔ アート
無駄なことが嫌 ⇔ 無駄が大事
意味が分からない ⇔ 意味がないことが大事
コントロールする ⇔ 委ねる
動的 ⇔ 静的
不安を消す ⇔ 不安でいい
強くなりたい ⇔ 弱くていい
問題をすぐに解決する ⇔ 問題を寝かして真のテーマに気づく
勝てる技をGETしたい ⇔ 手放してシンプルになっていく
許せない ⇔ 受け入れる
こだわりが強い ⇔ こだわりや執着から離れていく
GETのプレーから手放すプレーへ
戻る方向のあり方は、若い選手達には受け入れがたいでしょう。ただどのプレーヤーにも前半生と後半生があります。前半生は、GETのプレーでいいのです。しかし、どこかで必ず折り返しのときがきます。
そこからが手放すプレーへのスタートなのです。
いかに手放すかはどの選手にも与えられる宿命といえます。しかし、これを受け入れられない選手も多いのです。
流れに抗って、さらに右肩上がりを目指すと、そこには苦しみが生まれます。フィーリングのずれからはじまり、イップスになる選手もいます。フォームの改造に失敗して長いスランプに陥る選手もいます。怪我で以前のようなプレーができなくなる選手もいます。
こうした選手達は、世間からは全盛期を過ぎたと言われます。まだやれると思っていた選手自身も、以前のような強い思いがなくなっているのを認めざるを得なくなります。これ以上成長するのは無理ではないだろうか。そろそろ引退の時期ではないかと思いはじめるのです。
もうこれ以上やるべきことが残っていないと思ったとき、人は燃え尽きます。
ただ、実は燃え尽きたときこそが、新たなスタートなのです。燃え尽きたとき、苦しみに抗う気力も体力も残っていません。苦しみを受け入れるしかないのです。これまでのプレーを終わるときがきたのです。
本当に苦しさを体験した人でないと、これまでやってきたことを手放すことはできません。逆にいえば、本当に苦しみを受け入れたとき、あなたは燃え尽きることができたと言えます。
燃え尽きかけたとき、もう終わりだと絶望を感じるかもしれません。実は、絶望こそ過去の執着を手放しなさいというメッセージなのです。
やるべきことはやりきった。もう自分には何も残っていないと思ったとき、結果だけでなく見栄、評価、すべてを捨てることができるのです。
これが後半生にむけてスタートラインに立つ準備が整ったときです。
そして、今までの延長ではない、まったく新しいプレーへのスタートを切ることができます。 若いときのような体力や勢いはなくても、新たな円熟したプレースタイルを構築し、再び輝きを取り戻すことができた選手達がいます。
後半生に輝く選手とは
前半生が得意な選手もいれば、後半生が輝く選手もいます。
技術を磨き、それを発揮できる体力と気力があれば、強くなります。強い選手が活躍できるのが、前半生の特徴といえます。
一方で、後半生はまったく違います。技術がむしろシンプルなプレーを邪魔する。勝ちたいという気持ちが力みになる。むしろ強さが今この瞬間のプレーを妨げるのです。
これが折り返し地点に立っているということです。
折り返し地点とは、英語でいえば「ターニングポイント」です。
自分の中で、ターニングポイントに気づけるか。これがなかなか難しいです。誰しも過去の延長線で考えたい。まったく新しいスタートをゼロからするのは怖いのです。
後半生を上手く過ごせた選手ほど、現役を終えたあとの人生が変わってきます。指導者として力を発揮している選手もいるし、まったく違う分野で活躍している選手もいます。
後半生のプレーとは、現役選手としては終わりに向かうプレーでもありますが、それは新たにはじまっていることでもあります。
ちなみに、後半生の競技人生とは、決して30歳を超えてからではありません。競技にもよりますが、6歳からやってきた選手にとっては、20歳でも後半生の場合もあります。競技人生は人によって違います。
後半生のプレーは、前半生とはまったく違う世界です。前半生は競技のための勝つためのプレーです。後半生の競技人生は、勝つためではありません。勝つという目的を離れ、あなたらしいプレーを目覚めさせる第二のスタートラインに立つことです。
子供の無心から大人の無心へ
頭でプレーする限界
前半生の「勝つためのプレー」で燃え尽きた、もしくは燃え尽きかけているあなたは、きっとプレーすることが怖くなっているでしょう。
それは、これまでの砂を噛むような苦い経験を重ねてきた中で、失敗を怖れるようになったからです。
これを私は「頭のプレーの限界」と呼んでいます。成功という光を求めて頑張ってきた結果、失敗という影があなたのプレーを覆ったのです。これが思考のもたらす副作用です。
子供の無心→大人の有心→大人の無心
誰しもジュニアのころは、ボールを打ったり、走ったり、投げたり、プレーすることが楽しくて仕方がなかったときがあったでしょう。
これは「子供の無心」です。そして、成長する中で、技術を習得し、試合でさまざまな経験をします。もっといい成績を残したい。もっと上手くなりたい。さまざまな知識や経験を重ね、プレーが分かるようになるといつしかあのときの無心は消えていきます。
大人になっていく中で、子供の無心から、大人のプレーへと移っていきます。理性がリスクを怖れ、失敗しないように行動するよう促すのです。これを「大人の有心」と呼んでいます。
よく選手から、「子供の時のように無心でプレーを楽しみたい」という声を聞きます。気持ちは分かります。でも子供のときに戻ることは無理なのです。
ちなみに、私は子供のときの無心が決してベストだとは思いません。わがままで自分の感情を抑えられず、視野の狭さも子供の無心の特徴だからです。
だからこそ大人になるために、ほとんどの選手は、理論的にプレーを分析しようとします。安定と正確さを求めてフォームを修正します。
これは子供の無心から大人の有心への変化です。有心とは適切なジャッジであり、原因の正確な分析であり、リスクを減らし安定したプレーを目指す方向です。
スランプやイップスに陥った選手の特徴とは
スランプに陥っている選手たちに共通しているのは、「成功」と「失敗」がはっきりしているということです。
いろいろ原因を分析した結果、自分のプレーをジャッジすることはとても上手くなっているのです。それは、失敗という輪郭をくっきりと浮かび上がらせます。
失敗しないようにいろいろ試みても、それは思考を思考で打ち消そうとしている状態。これが頭のプレーの限界です。
大人には大人の無心があります。大人の無心は、子供の時のような無邪気さはありませんが、洗練された美しさがあります。視野の広さがあります。
しかし、多くのプレーヤーが、大人の無心へと変化できず、引退していくのです。
大人の無心への道は、大人な有心による思考のプレーをもう一度白紙に戻すことが必要になります。円相で説明したように、自分に還るというのは、思考のプレーとはまったく逆の方向といえます。物事を逆から見るパラダイムシフトが必要になります。
頭のプレーの限界を知らせてくれる現象があります。それは「イップス」です。ゴルフでいえば、パッティングイップスになって、競技生活を終えていった選手達も多くいます。
しかし、これまでさまざまなスポーツ選手に出会ってきて、イップスは後半生での「勝たないプレー」へのターニングポイントになるのです。
実は、イップスになっていても、誰も人が見ていないと、スムースに打てるゴルファーがいます。これは、「どう見られているのか」という他者の目を意識しすぎているために身体の過度な緊張が起こっている状態といえます。イップスは自分の中の問題でもありますが、関係性の中で起こっている問題でもあるのです。
「恥」が自然なプレーを邪魔する
誰も見ていない場所で、ボールを打ってみましょう。もし、気持ちよくスムースに打てたとしたら、「恥」という意識が強いと言えます。
「恥」というのは、恥をかかないように努力するというプラスに働く側面もあります。一方で、「恥をかかないプレー」を目指そうとすると、ほとんどの場合マイナスに働きます。失敗は誰しも嫌なものですが、ここに恥が加わると、自分のプレーを人前で見られることに極度な緊張を伴うようになるからです。失敗にバイアスがかかってしまうのです。恥は人を追い詰めていくのです。
恥というのは、過度なプライドの裏返しとも言えます。自分はこんなものではない、もっと自分には力があるのだという気持ちがもともとあるので、ミスを受け入れられないのです。象徴的なのが1メートルのパットでしょう。3メートルは外しても恥にはなりませんが、1メートルを外すと「こんな距離も入れられないのか」と恥を感じやすいのです。さらに、それを人に見られることで屈辱感となり、トラウマとなって蓄積されていくのです。
研究者の調査で、過度なストレスの兆候として交感神経系の「逃走・闘争反応」が起こってくるとされています。パターイップスを抱えるゴルファーは、1メートルのパッティングになるとその場から逃げたくなるか、上手く打てずパターを投げつけてしまいたい怒りの衝動が起こります。そして、逃げださず怒りを抑えながら忍耐強く無理を続けることで、最終段階として背側迷走神経系の「凍りつき反応」が起こり、すべてをシャットダウンしてしまうのです。これはパッティングではまったく手が動かなくなった状態です。これらは、トラウマ治療の専門家の言葉を借りれば「屈辱であるばかりか、本人もわけが分からない体験」なのです。
「恥」というのは、自分のことが気になりすぎている状態といえます。周りが気になりすぎたり、怒りを感じるのも「自我」が強い状態といえます。そして、逃げ出したい気持ちを抑えたり、怒りを打ち消す思考を持つことも「自我」の働きです。思考で思考を消すことはできないのです。
恥も屈辱感も、自分が周りから浮き上がっている状態と言えます。恥という意識と上手く付き合うことができれば、もっとスムースに打てるようになりますし、イップス症状を改善させることもできます。そのためにいかに自分へのこだわりである「自我」を薄めていけるか。
人からどう見られるか。前半生の競技人生では、人からの期待が力になります。しかし、その期待がいつしか重荷になっていくのです。期待に応えられない自分が恥ずかしく失望するのです。これが燃え尽きる大きな要素です。
後半生の競技人生は、いかにこうした期待から自由になるか。成功や失敗を決めるのはすべて自我の働きです。こうした自我から自由になっていくか。
イップスの苦しみは体験した人でないと分かりません。この苦しみの経験こそが、あなたが新たな扉を開く光になります。
自我から離れるのが「勝たないプレー」の肝といえます。
イップスを乗り越えていくというのは、あなたが自分というこだわりをいかに消せるか。こだわりを捨てることができるほど、あなたの身体は自由に楽に動けるようになります。
自分の心は思うようにはならない
集中の罠
どの選手も勢いがあるときは、プレーはシンプルです。しかし、悩み始めると、いろいろ考えすぎてしまうのです。
集中しようとするほど、いろいろな雑音が聞こえてきます。ここ一番、緊張する場面では不安を煽ってきます。また、少しでもミスをすると、あなたを厳しく責めます。こうした声の中では、安心してプレー出来ません。
選手からはどうしたらこうした声を消せるかという相談を受けます。
アスリート達は、心をもっと上手くコントロールしたいという期待を持っています。メンタルトレーニングは「心を扱う技術」だと思われているアスリートがほとんどでしょう。
心を変えようとするのです。前半生では自分のプレーをコントロールしようとします。それが出来ているように感じるのです。
自我を強化するのではなく、我を薄めていく
「自分の心は思うとおりにはならない。」
禅×メンタルトレーニングはここからスタートします。心を思うとおりにコントロールしようとして「こうなりたい」「ここが嫌だ」と直そうとすると、多くの場合、さらにこじれていきます。嫌な箇所を限定するのも「自我(エゴ)」の意識の働きであり、直したいという考えも「自我」だからです。
「自我」で「自我」にアプローチすると、さらに「自我」が強くなっていきます。ちなみに「自我」は良い悪いではありません。私たちが持っているものです。ただ、「我」とどう付き合うかはプレーに大きく影響してきます。
我を強くするのか?我を薄めていくのか?調子が悪いときほど、プレーへのこだわりが強くなっていきます。些細なミスが許せなくなります。これは自我の罠に嵌まっているのです。
禅ではこの世界はよく川に喩えられます。師匠の老師は『自我が強い状態というのは、川の流れから「自分」という存在が浮き出ている状態』と言われていました。要は自分が周りの世界と切り離されているのです。自分という輪郭がくっきりと浮き出ている感覚ともいえます。
いかに自分と周りの世界との調和を取り戻すか。禅では「無我」「無常」を説き、坐禅を通して「我を薄めていく」修行をしていきます。
禅の「身心一如」とは
曹洞宗の開祖道元禅師は「身心一如」を説かれました。身体と心が一つのものの両面であるということですが、注目して欲しいのは、「身心」であって「心身」ではないということです。あくまで身体が先にあって、心が立ち上がってくる。坐禅はまさに身から心を整えていく鍛錬といえます。
ある老師は「坐禅では、坐禅しようと思わないことです」と話されていました。坐禅しようとすると、つい構えてしまいます。また呼吸をコントロールしようとするのです。人の心はコントロールする働きを持っています。どれだけ坐禅を重ねても、いい呼吸を求めて坐っていてはさらに自我を強くしてしまうのです。坐禅でも心のあり方次第で、さらに執着を深めてしまいます。
ただ、呼吸を感じること。浅いときは浅いことに気づく。深いときは深いことに気づく。早いときは早いことに気づく。ゆっくりならゆっくりに気づく。これは「只管打坐」といわれる坐禅のあり方です。身体の働きに心はただ寄り添うことで、次第にコントロールしようとする心の働きは鎮まっていきます。
無心のプレーへの道
多くのスポーツ選手が、いいパフォーマンスを出すためには、プレーをいかにコントロールするかが大事だと考えています。これは「頭ファーストのプレー」と呼んでいます。これは頭が主(あるじ)で体が従のプレーです。
ゾーンという状態があります。スポーツをされている人であれば一度は経験したことがあるでしょう。まさにゾーンとは禅の無心と近い状態といえます、
ゾーンへとつながる「無心のプレー」は、いかに頭によるコントロールを手放すか。そのためには、身体が主のプレーをしていく必要があるのです。これを「身体ファースト」のプレーと呼んでいます。
ティーグラウンドに立った時、ただ呼吸を感じてみる。早くても浅くてもOKです。風を身体で感じながらターゲット方向に目がむいていく。ただ構えてみる。すべて身体の動きに任せます。心の役割はただその働きを観察するだけです。常に身体が先で頭の働きは後です。
「身体ファースト」のプレーが、無心のスウィングへの第一歩です。やがて「自我」を離れ「無我」の状態に近づけたときに、「無心のスウィング」が現れてきます。
頭ファーストから身体ファーストのプレーへ
無心を修行する
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
随筆家の若松英輔さんは著書「悲しみの流儀」の中で、新古今和歌集の中に出てくる西行の歌を無心の表現として紹介しています。
「心なき」とは心の奥の心であり、無心を表現する言葉である。私のこころは何も感じなかったとしても、その奥に潜むもう一つの心はいつも世界の無音の声を聞いている。
無心とは心がなくなってしまったことを指すのではない。私心が極限まで無化された状態にほかならない。それは同時に創造の力にあふれた「無」の世界である。
若松英輔著『悲しみの流儀』
私たちは普段「心」を認識して生活しています。しかし、心の奥の心は頭では認識できません。無音の声の受信機は、頭ではなく身体です。
まさに坐禅は、身体で世界の情報を受信する訓練です。だから、最初は何も聞こえていないように感じます。だから手応えがありません。
スポーツで今この瞬間をプレーする大事さは誰しも頭では理解していると思います。しかし、実際には難しい。なぜなら、今この瞬間は常に流れ、変化し続けているからです。これだという形がないから頭では捉えられないのです。
身体はいつも「変化しつづける今この瞬間」を生きています。その代表が呼吸です。禅では「一息は一生」とも言われますが、一息はまさに生死を司っています。また私たちが今見ているもの、聞こえてくるもので同じものはありません。身体にとって、すべての出会いははじめてのものです。未知を生きるのが身体です。
一方で、頭は分かろうとします。過去の経験をもとに今を意味づけして概念にしようとします。理由を分析して納得しようとします。また未来を予想して、分かろうとします。過去、未来というフィルターを通した今は既知のものになります。既知を生きるのが頭です。
頭ファーストのプレーから身体ファーストのプレーへ
スポーツにおいて頭ファーストのプレーとは、思考優先のプレーです。身体の動きの問題点について分析し、正しい動きに修正しようとします。またプレーする前に結果について予想してプレーする。また、思考ファーストの特徴として安定したプレーを目指します。同じプレーを再現することでミスを減らそうとするのです。どんな状況においても身体の動きは変わらないことを目指します。ゴルフでいえばミスを減らすためにスウィングを固めようとします。陸上で言えば、早く走る、高く遠くに跳ぶために、イメージ通りの走りをしようとします。それまで一番よかった走りを再現しようとするのです。これは予測したプレーといえます。これは頭が作った枠の中で身体を動かしている状態です。
一方で身体ファーストのプレーとは、周りの環境に合わせて常に動き続けています。呼吸を観察してみてください。恐らく一回として同じ息の長さ、深さの呼吸はありません。坐禅をしていると最初はいろいろ考えることが忙しく、身体の声は聞こえてきません。息も荒くて早い。しばらく坐っていると、少しずつ頭の声が小さくなっていきます。すると、だんだん身体に何が起こっているか感じられてきます。身体の声というのは、頭の声より小さいのです。しかし、いったん身体ファーストの坐禅になってくると、静かに坐っている中で、さまざまな動きが身体の中で起こっていることに驚かされます。まさに「静中の動」という感じでしょうか。
ちなみにゴルファーの多くが、執着を集中と勘違いしています。執着による集中というのは、頑張ろうとして余計な力みが入っているのです。余計な執着を手放していけると、自然体になっていきます。身体ファーストの集中とは、静かで穏やかなのです。
身体ファーストのトレーニング
身体ファーストのプレーに取り組んでいるプロゴルファーとのやりとりの一部をご紹介します。
【選手からの報告】
こんにちは。 今日は試合でした。朝から頭が真っ白でティーショットは体の声が聞こえませんでした。途中も自分の頭で作った声に負けそうになったりしながら、でも嫌だなって思ったホールでも立ち位置を変えたりして色々挑戦してみることができました。 ずっと「体はどうする?」っていうワードでやっていました。
【赤野の返信】
今起こっている状態が確認できてよかったです。身体ファーストにプレーに切り替えていくために大事なことは、「何かを変えようとする」のではなく、「何が起こっているのか知る」ことです。だから、頭の声に負けてもいいのです。頭の声に気づく。負けそうになっていることに気づく。嫌かもしれませんが、それを否定するのではなく、ただ受け入れていく。起こっていることに気づき受け入れる中で、だんだん心や身体に肯定感という余裕が生まれてきます。だから、何が起こってもいいのです。何かを変えようとする必要もありません。ただ「そういうことが起こっているのだなあ」と知る。そうしていくなかで、自然に変化が起こり始めます。それを辛抱強く待てるか。まずは、今の取り組みで続けていきましょう。
身体ファーストのプレーは、頭で分かっている世界から、まったくはじめての分からない世界に飛び込むプレーとも言えます。
頭で考え分かろうとしながら生きることと、一方で分からない今この瞬間をただ生きている身体。人間の持つ2つの働き。
これまで頭で身体をコントロールしようとするやり方で人間は生きてきました。身体に対して頭が一方的に正解を押しつけている状態です。これでは、頭と身体が喧嘩して、どこかで真逆のことをしはじめたりします。
身体と頭を調和させるためには、どう頭を使えばよいのか。
問題を解決しようとすると、頭と身体はぶつかります。何かを変えようとすると、これもぶつかります。
頑張って「なんとかしよう」とするのが前半生のプレーです。後半生は、身体に委ねて「なんとかしようとしないプレー」へと転換していくのです。
しないメンタルトレーニング
余計な技を削ぎ落としていく
後半生の競技人生では、もう新たな技を身につける必要はありません。むしろ、これまで身につけてきた余計な技を削ぎ落としていくことからはじまります。
アスリートはスポーツの上達を考えるときに、まずは技術の向上を考えます。
上手くなるために練習します。ただ、注意しなければならないのは、技術を高めようとするほど、逆に身体が動かなくなるケースがあるということです。
これは、特にベテランの選手で多く起こる現象です。
スポーツのメンタルトレーニングをしていて、調子が落ちている選手がよく使う言葉があります。
ゴルファーや野球選手でいえば、「芯を外した」という表現です。それがさらに強くなると、「何センチずれた」「何ミリずれた」ということになっていきます。ここまで感じられるというのは感性が鋭い証なのですが、少しでもズレることが許せなくなってくると技術へのこだわりが逆に感性を邪魔しはじめます。
理想のプレーはイメージできていても、身体がついていかないのです。本人は理想のプレーをしようとしてただ懸命に頑張っているのですが、理想という自分への期待は、身体を酷使する傾向が強いのです。
これは「技術依存」の状態です。
緊張した場面やここ一番で、普段の練習では見たこともないミスが出る。予想外の動きをする。身体が動かなくなる。
もちろん技術的にはいろいろな解説ができるでしょう。何が原因で、何を直せば良くなる。間違ってはいませんが、ただこれは、技術を過信しすぎて、技術に頼りすぎているのです。
20歳前後までは、自分がコントロールしようとすると、その通り身体が動いてくれます。だから、技術を向上さえすれば、理想のプレーが出来るようになると思いがちです。前半生のプレーは、新たな技術を身につけていくことで、成長できるのです。
しかし、ほとんどの場合、この考え方ではどこかで行き詰まります。
しようとするほど体が動かなくなる
どこかで、身体があなたの理想についていけなくなるのです。身体は頭の奴隷ではありません。身体には身体の道理があります。
技術依存というのは、頭でっかちになっているプレーであり、身体が取り残されているプレーなのです。身体が自然に動けるためには、全体の調和が大事になります。
上達するために、アスリートはなにかを「しよう」とします。
しようとする弊害のひとつが、「正しいこと」を求めることです。問題を解決するために、「正しい答えを探そう」とします。正しいフォームに直そうとします。ミスをしないために「正確に打とう」とします。
技にこだわりすぎると、「正しさの呪縛」に陥ります。正しさを求める理想が強すぎて、技と身体がバラバラになっているのです。
後半生のプレーでは、身体と心と技が調和するためにあえて「〜しない」というアプローチを取り入れていく必要があります。
もう技はいいのです。一度技から離れるのです。技を向上させようとしないことで、あなたらしい本当の動きが見えてきます。
一般的な呼吸法に関する本を読むと、気持ちを落ち着かせる効果があるといった呼吸法のテクニックについて書かれています。また、スポーツでのメンタルトレーニングでも呼吸の大事さは理解されていますが、それはパフォーマンスアップのためという目的があります。
もちろん、効果や目的はあっていいのです。ただこれは「する呼吸法」です。
アスリートは、結果が求められる中で、「私がする」という意識が強い傾向があります。なので、呼吸法をするときも、ついいつもの力感でやってしまいます。これは、何かを「GET」しようとする呼吸法と言えます。自分が何かを成し遂げるために呼吸を利用するのと、禅における呼吸は真逆と言えます。
しない呼吸法とは
禅の師匠である藤田一照老師は、「しない呼吸法」を大事にされています。
藤田『心が動揺すると息も乱れるし、身体が緊張すると息も浅くなる。まずは今の呼吸の状態に気づくことがすごく大事です。形のない心の働きが、具体的になったのが身体。呼吸は心と身体を媒介します。身体は完璧な呼吸の仕方をすでに知っています。僕らにとって大事なのは、身体の自然な呼吸を「邪魔しない」こと。そういう身体にまかせる「しない呼吸法」があります』
一照さんによると、呼吸にはテクニックの方向とアートの方向があるそうです。良い呼吸の仕方に自分の呼吸を従わせることで、意志的に良い呼吸にするというトップダウン式がテクニックの方向。一方で、人為的な方法を手放して自然に任せていくのがアートの方向です。
スポーツでは、究極の集中状態と言われているゾーンという境地があります。ただ意図的にゾーンに入ろうとすると、ゾーンから遠ざかって行きます。邪魔しているものは、私たちのエゴなのです。ゾーンとは、エゴから離れたときに自然に起こります。これは、禅における無心と同じです。無心を求めるほど無心にはなれません。これはすべて思考によるコントロールだからです。
思考でなんとかしようという考え方で呼吸法をしても、自然な呼吸にはなりません。自然な働きにいかに任せるかという練習がまさに坐禅です。藤田老師によると、呼吸のことは呼吸に聞けという態度が大事だそうです。
藤田「呼吸に気を向けるとそれだけで、呼吸が自然に変わってきます。呼吸って必死に探しにいかなくても、ふと気がつくと今ここにある。しばらくの時間、自分の息の様子を気に懸けるだけでいい。」
それでは、少しの間、自分の息を感じてみましょう。良い呼吸をしようとする必要はありません。ただ、優しい気持ちで気にかけてみましょう。
いかがだったでしょうか。気にかけた瞬間、呼吸が不自然になったと感じられた方もおられたのではないでしょうか。意識を向けるだけで息は変わります。それくらい、呼吸というのは繊細なものなのです。
大事なことは、ここでなんとかしようとしないことです。身体には自己調整能力があります。身体の持つ力を信じて、ありのまま息を味わっていれば、自然に息は整ってきます。
スポーツにおいて、いかに無心でプレーするかは、永遠のテーマです。ご紹介した「しない呼吸」というのは、無心の呼吸と言えます。無心の呼吸にアプローチすることで、自然に無心のプレーへと導かれていきます。
アートなプレー
フィーリングがズレるとき
失われたフィーリングはもう元には戻らないのでしょうか。
長く苦しいスランプに陥った選手は、長らくいいフィーリングでプレー出来ていません。もう良かったときの感覚が分からなくなっている選手もいます。
フィーリングとは感性です。若いときは天性の感性でプレーできます。
しかしどんな才能のある選手達もスランプに陥ります。イメージが湧かない。イメージが湧いても身体の動きと合わない。プレーするのが怖い。どこかで大きなミスが出る。手が動かない。
このような悩みの根源にあるのは、目に見えない「ズレ」。誰しも、何も考えずプレー出来ていたあの頃の自分に戻りたいと思います。多くの場合、それを技術で克服しようとします。あるいは違うコーチについてフォームを修正しようとします。こうした努力で「ズレ」が戻ることもあります。
それで上手くいかない場合もあります。「ズレ」が戻らず選手生活にピリオドを打ったり、ゴルフを止めてしまうゴルファーもいます。ただ、人は本当に苦しいときこそ、何かを大きく見直す時期といえます。どこかであなたのゴルフに限界を感じたときこそ、プレーをアートから作り直すタイミングなのです。
スポーツにはさまざまな理論があります。こうすればよいという正解があるように本には書かれています。でも実は、プレーというのは理論ではありません。理論とはあくまで後付けなのです。これを誤解して理論からプレーを作ろうとすると「ズレ」るのです。
理論の逆は「体験」です。まずやってみる。とりあえず打ってみる。いかに体験からプレーを作っていけるか。これがアートの方向です。
円相と無心
アートは坐禅の無心に似ています。無心になろうと思うと、無心はやってきません。芸術家もいい作品を作ろうと意気込むほど、イメージは湧いてきません。ゴルフでもいいスウィングを作ろうとすると、逆に無心のスウィングからは遠ざかっていきます。逆にいいスイングを手放せたときに、あなたの魂がスウィングに現れるのです。
自分のプレーの未知の可能性を知りたい。もっと自分の心を解放すると、どんなプレーをするのか知りたい。もし、そういう願いがあるようでしたら、これまで作ってきたプレーを見直す時です。それも「真逆から見直す」のです。
何を真逆から見るのか。普段は私がスウィングを作るという意識で練習をされていると思います。これは「私」が主語で「スウィング」が目的語の練習。これを逆にすると「スウィング」が主語。スウィングが私の手をとってくれる。という感じでしょうか。
ちなみに、禅のお坊さんは、無心のアーティストだと私は考えています。頭で考える思考の世界を離れて、悟りの世界へと生涯を通して修行を重ねていく。ちなみにお坊さんが描いた書画を見ていると、宇宙を感じるのです。
禅では、円相という書画がよく宇宙の真理を現すシンボルとして使われますが、あの円をどう見るか。先日、禅の師匠から興味深い話をお聞きしました。
まず紙を準備して、ペンで円を描いてみてください。それは、どんな円でしょうか。大きい、小さい、縦長、横長、まん丸など、さまざまな形があります。円の形をイメージしながら〇を描くのが通常のやりかたです。これは「私」を主語にした描き方であり、人間が物事を普通にみている状態。
円を描く方法はもう一つあります。接線という言葉をご存じでしょうか。円に接する線のことです。それでは、接線をたくさん引いてみてください。どうでしょうか?次第に円の形が浮かび上がってくると思います。これは、まったくイメージや答えがない状態から、ただ線を引いていく。すると、次第に形が見えてくる。これが、「私」を主語にしない円の描き方です。
ゴルフでも、スウィングやプレーに対して理想のスウィング、理想のプレー、正解からスウィングやプレーを作っていくというやり方があります。これは、すべて「私」を主語にした練習。私という枠の中で、自分を表現していくのです。これは枠の中の自由です。
もう一つの自由があります。それはどこまでも広がる無限の自由。前回からお伝えしている自分の魂を表現するソウルフルなゴルフとは、枠がないところからスタートします。魂がスウィングとして現れてくるための取り組みです。
これは、これまでもっと上手くなることを目指して練習してきたが、どこかで「ズレ」を感じはじめたゴルファーに有効といます。固定概念の枠の中で、修正したスウィングの上にさらに修正を重ねても、ズレが大きくなるだけです。大事なことは、修正で見えなくなった自分本来のスウィングに戻ることです。でも、それは頭で考えても答えは出ません。
ゴルフとアートの融合
才能があるのに試合で活躍できなかったり、スランプで燃え尽きていく選手は、技術的な問題ではなく、アートとゴルフを上手く融合できなかったのが、大きな原因の一つであると考えています。
ゴルフをアートとして考えてみる。同じことを繰り返すという概念を捨てましょう。毎回のプレーが違っていいのです。思ったようにプレーしていいのです。ミスしていいのです。安定という言葉を捨てましょう。
スコアを優先してしまうと、こうした「アート」な側面を無視してしまいがちになります。ミスを恐れて湧き出てくるものを止めてしまったり、スコアを優先して安全策に走ると、人の感性は死んでいきます。結果的に、直感力や創造性が死んでいきます。
たとえば「ルーティーン」では同じ事を繰り返しますよね。なぜ、毎回同じ動作を繰り返す必要があるのか。それはプレー毎に緊張や不安、ワクワク感など毎回違ったことが起こるからです。心を安定させるために、一定の同じ動作を繰り返すのです。しかし、ルーティーンの目的がただ同じ動作を繰り返すことになっていくと、アートは失われていきます。
そうではなく、「ルーティーン」でいつもと違う自分を知ることを目的にしてみましょう。心が鎮まってくると、何か違う部分に気づくはずです。一般的には、普段と違うフィーリングが生まれると、嫌な感じがしたり、ミスにつながるイメージが生まれたりと避けたいと考えているゴルファーが多いです。そうではないのです。本来のルーティーンは、「毎回のプレーの違いに気づく」ことなのです。環境、天候、コース、ライ、自分のコンディション、すべてのプレーに二度と同じ状況はないことに気づくはずです。違いや違和感を押し入れの中に閉じ込めるためにルーティーンをするのではなく、同じ動作をしながら違いを発見する。これこそがまさに「アート」。
結果以上の面白さに出会うのがアートなプレー
禅では、すべて毎回の坐禅が違います。同じように坐っているようでも、起こってくることは毎回違います。形に囚われてきょうも同じように坐らなければと考えると、坐禅は退屈なありきたりの時間になります。同じ動作を繰り返すことで、いかに違う自分が発見できるか。
ゴルフのスウィングは同じように振っていても、一回一回違います。だからこそ、毎回のプレーが新鮮であり、面白さでもあります。私たちには、自分で思っている以上に、イマジネーション(想像力)があります。ゴルファーが持っているアートの部分、面白いユニークな部分をどうゴルフで表現していくか。それは、正解のない、あなただけの道。
アートなゴルフには正解がありません。原点に戻ってさまざまな刺激をゴルフに与えていくことで、スウィングが現れてきます。でも、何が現れてくるかは分からない。これは一刻も早く勝つことを目的としている前半生の競技人生では、とても怖くてできないでしょう。
スコア以上の面白さに気づくのが、後半生の競技人生です。
競技人生集大成のプレーへ
折り返しのメンタルトレーニング
ここまで読んできて考え方は分かった。自分は今ターニングポイントにいるかもしれない。では具体的にどうすればよいのか。まずは、何をすればいいのか聞きたい。そんな声が聞こえてきます。
選手はもっとも大事なことを忘れがちです。
それは、元気にプレーできること。健康のありがたさです。
プレーには2つの方向があります。
一つはすごいプレーを出来るようになること。すごい結果を残す。プレーを通して自己実現し、幸せを掴みにいくありかたです。これは、前半生で扱うメンタルトレーニングのテーマです。
もう一つは、苦しみを減らすというプレー。さまざまな苦しみを経験した人にしか分からないありかたです。自分に与えられた試練とどう付き合うか。これは、折り返しの人生から扱うメンタルトレーニングのテーマです。
前者は挑戦のプレーであり、後者は修行のプレーとも言えます。
前半生は夢からのスタート、一方で後半生の競技人生というのは苦しみからのスタートです。
苦しみは、なくなりません。なくそうとしなくていいのです。
ときどき、「苦しみはありません」という人に出会います。もし本当に苦しみを感じられていないとすれば、それは少し悲しいことです。
本当の謙虚さとは
苦しみに気づくことは、謙虚な姿勢で人生に取り組むということです。
謙虚でいるというのは、結構、難しいです。人はつい余計ことに心奪われてしまいます。欲が出る。執着する。そういうとき、思い通りにならない苦しさを感じます。
メンタルトレーニングのセッションをやっていると、さまざまな苦しみに出会います。
- 思うように身体が動かない
- 思うような結果が出ない
- 怪我で悩んでいる
- モチベーションが上がらない
- 人間関係に悩んでいる
本人は本当に苦しんでいます。苦しいということには、すごく共感できます。ただ、誤解を怖れずに申し上げると、この苦しみは「贅沢」なのです。言葉を変えると、余計なことで苦しんでいるのです。
でも、誰も「贅沢」になろうとはしていませんし、すごく大事なことだから悩んでいるのです。苦しもうとして苦しんでいる人は、誰もいません。
あるプロゴルファーは、ドライバーが上手く打てないことで悩んでいました。プレッシャーのかかるホールに立つと、身体が動かなくなってしまうのです。結果として、大きく右に押し出したり、左に引っかけたりと、大きくスコアを崩す原因になっていました。これはプロとしては致命的な問題に思えます。その状態ではプロとして食べてはいけません。ただ、これも贅沢な苦しみなのです。
ドライバーを持つと、飛ばしたい、曲げたくない、失敗するのが怖いという気持ちが湧き出してきます。
一般的なメンタルトレーニングでは、このような心の状態を変えようとします。呼吸法を導入してリラックス状態を作り出したり、目標を下げてプレッシャーを減らしたり、脳科学的なアプローチでイメージを変えたりして、なんとかドライバーを持ったときに生まれる負の状態をコントロールしようとするのです。
このアプローチが有効な選手もいると思います。特に若手の選手には、効果が出やすいです。
ただ、これまでゴルフだけでなく、野球やテニス、陸上など、さまざまなスポーツの選手に出会ってきてわかったのは、「多くの経験を重ねている選手は、イメージを変えようとしても難しい」ということです。
積み重なった過去の辛い経験が、心と身体にトラウマとして蓄積されている選手も多いです。イップスと言われる状態も、要因が一つではありません。恥の意識など、さまざまな要因が絡んでいます。自分らしいプレーが分からなくなった選手もいます。
どのスポーツでも、ベテランの選手達は、さまざまな経験を重ねる中で、上手くいかない理由について考えられることは、ほぼすべて考え尽くしています。
しかし実はこの考えるということが、さらに苦しみを生み出しています。それは一言でいうと、言葉で作り上げた概念で固まっているのです。
先程のプロゴルファーとも、さまざまなトレーニングをやりましたが、なかなか上手くいきません。数年にわたって固まってきた心と身体は、結構、頑固になっているのです。
あるとき、抱えている悩みそのものが贅沢ではないかと気づきました。最初にも申し上げましたが、エゴが作り出した苦しみというのがあります。これを「贅沢な苦しみ」と表現しています。贅沢な苦しみは、取り除こうとするのではなく、「贅沢である」と気づけるかどうかがポイントです。
スポーツの基本とは
スポーツする上で、もっとも基本となるものは何でしょうか。少し考えてみてください。
私の意見では、もっとも基本となるのは「息」です。呼吸無くして、生きていることはできないからです。
基本となるものが、もう一つあります。
それは、目が見えているということです。見えていないと、プレーすることはできません。
では、ドライバーを上手く打つというのは、生きる上で何番目くらいに必要なことでしょうか。
10番目?20番目?100番目?
いずれにしても、かなり順位が後の方でしょう。生きる上では、まったく不可欠ではありません。
上手くドライバーを打とうとする心でプレーしていると、息をしていることは当たり前、見えていることは当たり前になっています。これは本来の生きている自分から随分遠ざかっているのです。
自分から遠いところにいるほど、人は余計なことで悩み苦しむのです。いかに「今を生きている自分」とともにいられるかが大切です。
先程のドライバーでいえば、いかに今生きている自分で打てるか。
オススメしたいのは、起こっていることをひとつひとつ繊細に感じられるように意識することです。
私たちは、普段当たり前のように見ています。見るという働きを使って、スマホを見たり、スポーツをしたりします。
いい感覚がでないというのは、息をしていることを忘れている状態です。いいプレーができないというのは、見えているのを離れた苦しみといえます。このとき恐らく謙虚さは忘れているでしょう。それが「贅沢な苦しみ」なのです。
一度、考えることをやめて、ただ見えていることに戻ってみましょう。スマートフォンを閉じて、少し周りを見回してみましょう。見えているという奇跡が感じられるでしょうか。
もともと何かが見えているということ自体が、当たり前ではないのです。見えているということがミラクルなのです。
息していることが感じられているとき、自然に「謙虚」に戻っていきます。「謙虚」は、頭で考えて作り出すものではなく、もっとも基本となる身体とともにいれば、現れてくるエネルギーなのです。
また見えていることが感じられているとき、世界は柔らかいです。すべてがとても新鮮に見えてきます。感謝が生まれてきます。これは苦しみが固まるのとは真逆の方向への心のあり方です。
息をして、見えている上に、さらに身体を動かしてスポーツをするということは、とても贅沢なことなのです。そこに気づけているかどうかで、生きるというクオリティはまったく変わってきます。
もっとすごいプレーをするために、目や耳を酷使する。これが贅沢であることに気づけていないと、どこかで怪我をします。苦しみというのは、贅沢への警鐘なのです。
スポーツにおいて、もっとも基本となる人間の働きを忘れてくると、スランプに陥ります。そして、どこかで大切なことを忘れていたことに気づけたときに、プレーは蘇ってきます。だから、スポーツというのは、とても尊い活動だと思うのです。
目や耳の働きをありがたく感じられているか。これが「今生かされている」というあり方です。
歩いているときに考え事をしていると、それは苦しみの歩行になります。いかに、足の動いていることだけを感じられるかを意識してみてください。
食べているときに考え事をしていると、それは苦しみの食事になります。食材を味わえていないからです。食べるという本来の働きが無視されているからです。
考えるということは、意味あることをしようとする心の働きです。人生を意味あるものにしよう、プレーを価値あるものにしようとします。
しかし、意味あるものを求めると、それは苦しみも生み出します。
歩いているときに、ただ足の動きを観察する。
食べているときに、ただ口の動きを観察する。
これはまったく意味のないことです。少なくとも頭はそう理解します。だから、退屈します。面白くないかもしれません。その感覚こそが、余計なエゴから離れる試練の瞬間といえます。
意味がない代わりに、見えていること、歩いていること、食べていることができてきます。
生きているという奇跡
人間に与えられている働きに戻ってみましょう。
見えている奇跡
聞こえている奇跡
地面に立っている奇跡
息が出来ている奇跡
ちなみに、先ほどのプロゴルファーは、プレーをしているときに、息をしていること、見えていること、歩いていること、生きている身体を感じることで、周りの景色の見え方がまったく変わってきました。グリーンの微妙な緑のグラデーションや、一本一本の芝が見えてきたりするそうです。
「今までは9対1でいかにプレーするかばかり考えていました。今は、9で生きている身体をただ感じるようにしています。10%くらいゴルフのことを考えるのが、丁度身体にはいいみたいです。」
ドライバーを持ったときも、調子が悪いときにはフェアウェイが狭く感じたり、ドライバーのヘッドが小さく見えていたそうです。
それが今は、ドライバーのヘッドが大きく感じるようになったそうです。また、苦手なホールでは、打ちたい方向を凝視していましたが、ただ見えていることを大事にしているとホールの奥行きが感じられるようになり、安心感が圧倒的に増したそうです。
見えているのが当たり前の目だと、表面しか見えませんが、見えている目だと、奥行きが見えてきます。
苦しみを感じたら、「原点に戻りなさい」というサインです。生きる奥行きを感じさせてくれるチャンスです。
勝たないメンタルトレーニングのスタートは、生かされているという原点にかえるところからはじまります。
もしあなたが「生かされている」という言葉に惹かれたとすれば、もう十分頑張ってきた証です。そろそろ頑張ることを卒業する時期です。
頑張るプレーから頑張らないプレーへ。自分の力で挑むプレーから生かされているプレーへの道が、勝たないメンタルトレーニングなのです。
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